昭和42年10月22日 朝の御理解
甘木の教会初代安武松太郎という先生が徹頭徹尾神様の御物ということを言うておられました。その神様の御物を徹底的にご大事になさったお方、そこからあの大徳を受けられた。そこから天地の親神様の御信用をお受けになられた。たくさんな逸話が残っておりますね。いかに厳しく神様の御物を大事になされたかということ。例えば下駄でも決して私共は下駄を履きますと右なら右、左なら左、形がづれていきますけれども、それではやっぱりかたづれがしたりいかん。少し歩いたら必ず下駄を履き替えらえた。庭の散り葉でもお粗末にされなかった。ホコ紙一枚でも大事にされた。タオル等はこちらとこちらを真ん中が破れますと替えてお使いになったということです。もうその徹底ぶりというのは実に厳しいものであった。お弟子さん方もやはり其のことを本気で教えられておられます。確かに神様の御物を大事にする。水一滴でも神様のお恵みのもの、云わば神様の御物、其のお話しの中にお弟子さんがお風呂を焚かれる。いつも燃料のことをやかましく言われるから、その日は境内でございますからね、庭のゴミとか塵とかといったものを皆からかき集めて、それでお風呂を焚かれた。もう親先生が喜んで下さると思うたんですね。もうたくさんの、云わば廃物を利用して風呂を焚かれた。そして親先生、お風呂が沸きましたというて御案内を申し上げるとお入りになった。ところが、いつもお入りになるお風呂より熱かった。今日のお風呂誰が焚いたかということになった。或るお弟子さんが、私が焚きましたと、今日のお風呂は熱すぎるじゃないか、沸き過ぎているじゃなかか、勿体ない。何故丁度良い時にお風呂沸きましたと言わんか。と云うならお叱りになったんですね。ところがお弟子さんはえたりとばかりに申しました。お風呂は焚き物は使っとりません。今日のお風呂は石炭を使いませんでした。今日のお風呂は庭を掃わきましてから、枝やら塵芥ら落ちとります。だから、そういうもんだけで焚きましたからと、得々と言った訳なんですね。ところが親先生、いよいよ厳しゅうなられた。木葉やら神様の御物じゃなかのと言うて怒られたということでございます。そのことからいうても一事が万事その通りであった。枯れ枝やら木の葉やらそれは何にもならんようなもんだから、いくら使うても良いということはない。それでも神様の御物ばいということを教えられた訳なんです。というようにその事に徹底されて、それは勿論様々な信心、御修行があっただろうけれども、甘木でおかげを頂きますとそのことを一番に教えられた。神様の御物を大事にするということを、神様の御物を大事にするなら神様がお喜びにならん筈がない。徹底しておかげが受けられる。
私共もそういうように徹底して参りましたら大徳が受けられると思いますね。そこで合楽では何をもって大事にしておるかと又、そこに徹底していこうと、私が精進しておるかというと神様の御物を大事にするという生き方ではないですね。どちらかというと、私はもう実に無造作に神様の御物を浪費致します。おかしいですけどそういう始末倹約致しません。お水でも必要なとき何ぼでも使え、例えばその第一の現れがこのお手洗いなんか、他所の先生方が見られたらそういう意味で教えを頂く先生方は、もうびっくりされるだろうと思います。何故って一日中出っぱなしですもんね。お水が、ね。
私は先日大きな或る教会に参りました。やはり今水がその地方は少ないからでございましょうけれども、お手洗鉢の水の中に全然水気がなかった。私はお広前御用して降りて来たところが後に菊栄会の方達が行っとりましたが七、八人の方達がお手洗い鉢を洗うてしもうてから、其の中に水ばいっぱい入れとりますもん。ほんとにこの人達は椛目でけれどもここはいかに水を大事にされておられるかということを考えもせずにこんなことをしてしもうてからと私は思ったんですけれど、もう手洗いを奇麗に洗うて、私が祈念して下りてくる間にですね、お手洗いの中に水をいっぱい入れとります。ほんとにあの先生がご覧になったら何というお粗末な事をする合楽の信者だろうかと思いなさったことだろうと、この水飢饉の時に例えば、合楽ではそれを実は有り難いと思うておる。神様が下さる無限のもの、限りがないもの、それをいらんことに使うちゃならんのだけれども、例えばあそけでこんこんと湧いておるこのお水を頂くことを楽しみにして参って来ておる信者があります。あのお水でおかげを病気が直ったと言う人がたくさんあります。
ところがそれが蛆こそわいとらんけれども、生ぬるい何か気持ちの悪い水だったらよう頂きませんよね。私は神様が無尽蔵に下さるものは、私は頂くことが神様が喜んで下さることだと、私はそう観念しておる、思うておる。お風呂の水でもいっぱい私は使いなさい。かと言って無駄な水は使うな、無駄なお湯は使うな、必要なだけは充分に使わせて頂けというのが私の信心なのである。食べ物でも米一粒でも神様の御物なのだから、決して粗末にはいたしません。落ちとりゃ拾って頂きもしますけれども、そうそのことを大事にする、御物を大事にするということに徹底はしていない。いやむしろ私はその事を有り難く頂くということが私の信心だと思うておるのですから。だから、あれが本当これが本当ということはない。問題は神様の心をですね、いかにして掴むかということ、ね。
久留米の初代の石橋先生なんか、その点全然甘木とは反対でおありだったんですね。ご自分の身におつけになるものは最高のものをおつけになられた。汽車でも当時ご本部参拝をされるのに、やっぱり一等の汽車に乗られた。それはお道の教師としての敬意を保てというお道の信心を大事にされるからこそ、そうされた。それでもああいう大徳を受けられたんです。 だから、せんじ詰めていくと神様を思いに思われたからのことですね。ですから、ここで皆さんがおかげを受けるというのはその生き方ではなくて、私はどこまでもどこまでも神様のお働き、神様のお働きを大事にしていけというのが私の行き方なんです。
私共の一人一人の上に様々なことが起きてまいりますでしょう。問題が起こってくる、病気をする、困ったことがある。これは一切神様の働きなんだ。自然の働きなの、自分で作ったといってもいい訳ですね。難儀は大体自分が作ったと同じことだから、自分がその難儀なものを作っておるから、その難儀なことが起こっておるのですからそれが神様の働きなのです。その神様の働きですから、私はそこんところを成り行きを大事にしてから、成り行きを尊んでいけということを申しますわけでございますから、皆さんも私のそういうひとつの流儀というものをですね、体得されると素晴らしいと思うんです。
どういう問題があってもどういう難儀なことに出会いましても、それを神様の御働きとして神様の御物ではない。神様のお働きとしてそれを頂こうとする。勿論そういう神様の働きの中から神様のお心を知ろうとする。又はその問題そのものを合掌して受けていく。それを有り難く受けていく。そこで私共はお話しを頂かなければ分からないことがある。成程金光大神のお取次を頂かなければ、お取次頂かなければ受けられないことがたくさんある。自分でとてもそれを受けられないことがたくさんある。そこんところを金光大神のお徳にお縋りしてお取次を頂いてそれを頂いて行こうとする一生懸命の精進努力が必要なんです。
そこで私は先ずなんというても自分自身が分からなければいけない。めぐりの自覚にたてと云うことである。ね、いろんな難儀な問題が起きてまいりましても、自分がめぐり深い自分であるということが、自分というものがいよいよ分かってくるとです、ね、神様はこのようにしてめぐりのお取り払いを下さっておるんだと。天地に借金があるようなもの、神様はこうして借金取りに来て下さるというか、借金払いが出来ておるんだということになってくるのですよ。そこんところが本当に分かるとですね、そのことが有り難くなるんです。
難儀だと思っておる、はがゆいと思っておる、腹が立つと思っておることがです、その腹の立つその問題でお取り払いを頂いておると思うたら有り難い。だから、自分自身がめぐりの自覚というか、めぐりの深い私であるということを、先ず知らなければいけないことが分かる。
二十日は菊栄会の日でございますが、これは恒例になってます。菊栄会の方達が一名欠けましたけれども、全員で今度は参りました。私を含めて十名でございました。御大祭の後の私が疲れておろうから、私を慰労して下さる訳なんですね。この度は私は佐賀と多久の方へおいでにならなければなりませんでしたから、コースをあちらの方へ取りました。そして長崎の方へ参りました。初めて長崎に、初めてというか小学校の時に旅行で一回行っとりましたけれども、長崎にまいりましたから長崎の蛇踊りというのを見ました。蛇踊りですね、ちょうどここあたりでも祇園さんの時獅子を使うように獅子が牡丹なら牡丹に戯れて舞い狂うような、そのもので大きな蛇がですね、十人もかからなければ持てない、それも力の強い人しか持てないという大きな大蛇なんですね。
その大蛇が金の玉を戯れるというか、その金の玉へいどみかかる仕草が踊りになっておる。何十人の方達の支那風の楽が入ります。どんちゃんどんちゃんと入ってそれに合わせて蛇が踊る訳です。もう実に私は見ておってから感動致しました。私共僅かの為に蛇踊りを見せて下さるんですよ。もう思わず拍手いたしましたから、皆が拍手致しました。けどもね、そして私は明くる朝の御祈念に五時、やはり宿屋に泊まっとりましてもやはり皆起きましてからご祈念を致します。そしてそのご祈念の時に昨夜蛇踊りを見てどうしてあんなに感動しただろうかと私は自分で思うたんです。蛇踊りは悲しい踊りでもなければ何でもないんですけれども、どうしてあんなに涙が出るように感動したんだろうかと。
そしたらね、御理解に頂きますことが、丁度一個が十人でありましたがその十人の者が蛇を使ってるわけですね。一人であげてもいけないのですね。ここで蛇のお知らせをめぐりとおっしゃる。ほんとに私はめぐりの深い人達の集まりだと。皆さんでも合楽にこうして御神縁を頂いておられるということは、やはりめぐりがあってのことです。
そのめぐりがめぐりを呼んでここで皆さんが信心の稽古をして、めぐりのお取り払いの為の信心を一生懸命なさっておられる。いわゆる井戸は清水になるまでのおかげを頂いておられる訳なんです。その蛇の蛇踊りを私共十名になぞらえて下さった。私共がああいう大きな大蛇のようなめぐりを持っておる。そのめぐりのお取り払いを頂かせて頂くことを楽しみに信心させて貰わなければならない。というような御理解を頂いたんですけれども、です、私はそういうようなことからでもほんとにめぐりの深い私達であるということを悟らせて貰う。でないと今日私が申します神様のお働きというものを、それを有り難く受けられないのです。神様の働きというものを大事にされない、尊ばれない。私はこれに徹底している訳じゃないですけれども、甘木の初代が神様の御物を徹底大事にされてああいう大徳を受けられたように、私はどこどこまでも神様の御働き、神様の働きそのものを徹底して大事にさせて頂こうと思うております。こげんなりますとですね、非常に金光様の信心が大きくなるんですよ。
例えて云うならば甘木の親先生の生き方がいけないというのじゃないですよ。その時代その時代にやはり皆に受けたというか、発揮した訳なんですけれど、例えば金光様の信心がいかに名教だというても支那の人にもアメリカの人にも金光様の信心が分かっていく為には皆が合点のいくものでなからにゃいかんのです、ね。例えて云うならばアメリカの人達に金光教を説くといたしましょうか、そして神様の御物を大事にしなけりゃならんと云うて食物は人の命の為に天地の神がつくり与え給うものじゃから大事にしなけりゃいけんと云うて皿をゆすいで頂くようなことを教えたところで、アメリカの人達はついてきませんよね。むしろ、そういうようなことを例えばきれいに食べてしまうとか、水でゆすいで頂くようなことは、もうそれこそ信じた人のエチケットに反するんですもんね。そういう信心はおそらくそんな低級なやぼったい信心は俺たちには向かないだろうと思います。だから、例えば日本人には向いてもアメリカ人には、甘木の先生の生き方は私は不適当だと感じるのです。けれども私が云うておるところの神様の働きを大事にせよということだったら、これはどこの誰だって分からんことはなかろうと思う。
神様が一人一人の氏子の上に云わば中村キクヨなら中村キクヨという人の上にです、様々な働きがあるでしょう。その働きを大事にしていこうとする精進。信心とは、ね。
内田カズオなら内田カズオの上に起きてくるところの様々な問題をです、こげな問題はいらん、こげな問題は困るというて向こうに押しやるのではなく、それを一応は合掌して受けるだけの精進が必要だ。神様の働きそのものを大事にしなければいけないのだ。
それが痛いことであっても、損なことであってもそれをお取り払いとして有り難いと受けていくところの稽古をさせて頂いていくなら、これを徹底していくなら絶対神様の信用はついてくると思うです。これならばです、私はどこの誰だって私はあてはまらんことはないと思うです。外人だって黒人だってこの教えだったら徹底していけれると思うんです。ですから、難しいけれども私は信心が一回りも大きくなるような気が致します。私がそれが出来ておる訳じゃないですけど、それが甘木の親先生が御物を大切にと云うことに対して徹底し抜かれたように私がそのことをもっともっと本気で徹底して参りましたら私が力を受けることを私は確信致します。皆さんも何を稽古するかと申しますならばです、ここで稽古することはです、自分達の上に起きてくるその問題を尊ばせて貰う、大事にさせて貰う。それをおかげにしていくという信心にならなければ私の流儀に反します。だから、私の流儀にならなければ私は私流のおかげは受けられない。私流の力は受けられないと私は感じるのです。
私共がほんとに蛇のお知らせはめぐりとおっしゃるが、蛇も小さいのじゃなく大蛇のような大きなめぐりを持っておる。このくらい難儀なことは当たり前、このくらい困ったことは当たり前、いや当たり前というのじゃなくそうしてお取り払いを頂いておる。そこんところを教祖は、やれ痛や、今みかげをよという心になれ。やれ痛や、今みかげをと頂いておるんだという気になって、そこんところを大事にしていくということに徹底してまいりましたら、私はここんところをいい加減にしたんでは合楽ではおげは受けられないと思うです。難しいです。難しいけれども、それに本気で取り組ませて頂いてです、それを大事にしていく信心、それを尊ばせて頂く信心、云うならばです、私にどんなに皮肉をいう人があっても私をいじめる人があってもそれを大事にしていこうというのです。向こうが向こうならこっちもこっちというのではなくて、向こうは向こうでもこっちは信心でそれを頂いていこうと云うのです。そこんところが私は徹底されていかなければいけないと思うのです。
そこからおかげが受けられ、そこから神様の御信用が受けられる。お徳が受けられると思います。それには先ず自分自身のめぐりの深さとほんとにめぐりの深い、いわゆる屑の子の自覚というものが皆さんの上に出来て参りますと、そのことが尊ばれ、有り難く思われる訳なんですね。私今度長崎に参りましてから、蛇踊りを見せて頂いてここでは菊栄会と云えばここでは様々な会がたくさんありますけれども、その会が一流の会だと思うんです。事実又ここの中心としての御用が出来ておる方達ばっかりなんです。であればある程に大きなめぐりを持っておるんだということです。信心を本気で打ち込まねばならないほどにめぐりを持っておるんだと云うこと、だからめぐりというものを自分が自覚した時です。私共の前に起きてくるところの、いわゆる神様の働きそのものをです、大事にすることが出来る。本気で神様の働きを大事にすることが出来るようになったら人間はこんな幸せなことはないと思う。そういう幸せな心持ちを聞かせて頂くということがです、徳を受けることになるのです。それが力を受けることにもなるのです。 どうぞ。